分からないエヴァ初心者による、私たちのための私的新劇場版エヴァ解説まとめ

f:id:etoooooe:20210327160616j:image

 

 この文章は、エヴァンゲリオン新劇場版3作品をもってシン・エヴァンゲリオン劇場版を視聴するための準備を整えることが目指された文章です。シン・エヴァンゲリオン劇場版のネタバレは含まれませんが、第2部からは新劇場版3作品までのネタバレが含まれます。

 

 

 

1.はじめに、準備を始めるにあたって

 私はシン・エヴァンゲリオン劇場版が公開されるまでエヴァに全く触れていなかったオタクである。触れていなかった理由としては、私の腰が重かったことと、エヴァというジャンルのハードルが非常に高かったことが挙げられる。オタクを自負しながらエヴァに触れていない方のほとんどは、「一応見たいとは思ってるんだけどね〜」みたいな態度なんじゃないかと思う。私はそうだった。

 エヴァンゲリオンに触れる難しさの1つは、メディアの多さによるものである。エヴァンゲリオン初心者は、まずもってどこから触れれば良いか分からないだろう。私は新劇場版→漫画版→アニメ版→旧劇場版→(再度)新劇場版という順番でかなりハイペースに見たが、普通の人はそんなにエヴァに触れ続ける時間を取らず、途中で飽きてしまう可能性も高いと思われる。

 またもう1つに、エヴァを視聴するには現代思想精神分析、宗教、etc......の予備知識が必要そうなイメージが付き纏うということである。私は実際、信用のおける先輩オタクに各参考文献をご教授いただいた。しかし、そんな迷惑なことはみんながやるわけにもいかないと思う。(先輩オタクの方、本当にありがとうございました。)

 この2つの問題によってエヴァの視聴を躊躇っている人が多いと思うので、これらを越える方法から説明する。

 

 まず一つ目のハードルについてだが、私は一応全ての媒体のエヴァと、ごく標準的な数点の批評文献に目を通した。しかし、題目からも察されるように、実際にシン・エヴァンゲリオン劇場版を見てその準備に本当に必須と言えることは新劇場版3作品を見て内容を少し覚えておくことぐらいだと思う。(アスカというキャラクターだけは旧シリーズを視聴していないとよく分からないかも知れないが……なので、この文章は新劇場版の式波・アスカ・ラングレーのみを想定している。)

 したがって、まずはなりふり構わずエヴァンゲリオン新劇場版3作品を見ることをおすすめする。そしてシン・エヴァンゲリオン劇場版を見てから、あるいは見る前に、余力があればアニメと旧劇を見ればよい。これには古いオタクは怒るかもしれないが、実践すれば新しいオタクになるのであなたにはどうでもいい話である。

 映画3本アマプラで見る程度のハードルであれば、越えられる人もかなり増えるのではないかと思う。今は、アマプラやNetflixで視聴可能かどうかが本質的に視聴可能かどうかに直接繋がっている人も多いと思うので。

 

 しかしさて、準備としてエヴァンゲリオン新劇場版3作品に触れた場合にも、恐らくこれまた二つの難しさがある。これらが残りのハードルである知識の不足によるものである。知識の不足で起こり得る問題のひとつは、どうなっているか(作品内におけるWHAT,HOW)が分からないこと。もうひとつは、なぜそうなっているか(作品外におけるWHY)が分からないこと。前者はいわゆる「考察」によって、後者は批評によって明らかになるものだ。これらはやはり、一通り映画を眺めただけでは分からないかもしれない。

 しかし、あなたが余程エヴァの世界観を実感したいというのでなければ、前者の「考察」は必ずしも理解しなくてもよいと私は思う。

 これは、セカイ系と称されるジャンルにあるエヴァンゲリオンにおいて、「使徒」とか「アダムスの器」とかの物語設定は、多少無視しても問題がないような場合が少なくないからである。(これは最近のサブカルチャー作品全てにあてはまることでもあるのだが……)

 セカイ系とは(前島賢セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』を参照していただければより詳しい理解を得られると思う)、初期には「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)」という程度の意味だった。そして、後期においてセカイ系は「キャラクター個人の関係性と作品内部のセカイとが、社会的な繋ぎ目を失ったまま直結するもの」として帰納されて知られている。これはすなわち、セカイ系においては、キャラクターの関係性の構造的な理解が、諸々の物語設定の知識なしに、作品セカイの理解と同等の力を持つということだ。

 つまり、ある意味神話的とも言えるエヴァンゲリオンにおいては、主人公シンジ君の心理的状況やその周りのキャラクターとの位置関係に関して構造的に理解することが、「何故そうなったのか?(WHY)」の理解と直接に繋がり、それが作品セカイの理解であると言えるということである。

 だから、「あの暴走はアダムが関係してるの?」とか「なんでサードインパクトが起こるの?止められるの?」とか、様々な疑問がエヴァでは起こると思うが、大抵は無視して大丈夫である。まあつまるところ、シンジ君や他キャラクター達の立ち位置や目的を理解しておけば、細かい設定は何となく矛盾の無い形で放っておけるようになるということだ。

 ここで援用すべき台詞として、アニメ版のアスカには、シンジ君の「人間は闇を削って生きてきたから使徒に襲われるのか」という疑問に対する、「あんたバカァ?そんなの分かるわけないじゃん」というものがある。この台詞が私たちの諦めをすべて肯定してくれる訳ではなくとも、少なくとも私たちには、完全な設定をテクストから読み取ることなどできそうもないのだ、ということはできそうだ。

 以上の理由によって、この文章では細かい設定はサラリと流し、キャラクターの位置取りを構造的に捉えることを目指す。

 ちなみに、ここでいう構造的な理解とは、簡単に言えば作品内でAというキャラクターがBというキャラクターと敵対関係にある、と言うことを発見することであり、あるいはAというキャラクターはA’というモノの暗喩であるということを発見することである。

 

 では、「エヴァンゲリオン新劇場版:序」から内容を見ていくので、ここからは3作品を見てから読むことをおすすめする。読んでから見ても良いかも知れないが、必ずしも物語の順序に沿った説明は為されないことは承知いただきたい。

 

2.準備としてのエヴァンゲリオン新劇場版:序

 

 「序」は、良くも悪くもスタンダードである。内容も表面上は標準的なロボットアニメで、少々主人公がウジウジしていることを除けば「普通に」面白いと感じられるんじゃないかと思う。

 しかし、「序」は「破」「Q」で語られる関係性の初期状態を提示したものなので、整理には最も時間をかける必要があるかもしれない。

 

  さて、開幕からシンジ君の前にさも当然のように突如現れる使徒は、突然接近してくる父ゲンドウの存在とパラレルである。母親から産まれてくる子供にとって、父親とは当然突然なものであるから、シンジくんはここで〈父と出会った〉と言ってもいいだろう。

 では、父親=使徒ならば、母親は誰なのか。Qまで見終わった方ならば、それがエヴァンゲリオン初号機と綾波レイであることは分かるだろう。もちろんエヴァ初号機綾波レイは、生物学的には母親ではないので、精神分析的な用法として〈母親〉とでも表記する。

 このように見れば、エヴァンゲリオンの基本的な物語の道筋は、「シンジ君=子供が、エヴァ綾波レイ=〈母親〉と共に、使徒=〈父親〉を亡き者にする」というふうに整理できる。

 この整理を読めば、エディプス・コンプレクスを思い起こす方も多いのではないか。

 

 エディプス・コンプレクスとは、母子関係に父親が介入することによって子供が抱く、愛や憎悪などの心的複合体のことである。この文章はエヴァの入門であって精神分析の入門ではないので軽く纏めておくに留めるが、エディプス・コンプレクスは三つの段階に分かれる。

 第一段階は父親が登場しないので前エディプス期と呼ばれるが、ここでは子供が、生殺与奪の権を握っている母親をできるだけ自分の下へ引き留めておくべく、母親の欲望対象になろうとする。ここで重要なのは、子供がなろうとしている母親の欲望対象とは母親に欠けているすべてであり、つまり母親には完璧な姿であって欲しい、自分はそれを叶えたいという欲望が子供にはあるということである。これは、単に自分が生きたいという欲求ではなく、母親と一体化し、十全な存在になろうという欲望だ。

 そして実質的にエディプス・コンプレクスの始まる第二段階では、父の登場によって、母親が奪われてしまったように感じ、父親を剥奪者として恨みだす。子供は母親に完璧な姿であって欲しいと欲望しているが、それは叶っていない。それは父親が母親から男性的なモノを奪ったからだ!という考えに至るのである。

 第三段階では、それが誤解であったこと、むしろ父親は母親に男性的なモノを以て利益を与えていることに気付く。ここに、完璧な母親とその欠点を唯一埋められる自分という幻想をうち捨て、今度は父親に同一化することを目指すようになる。これをもって、子供はエディプス・コンプレクスを脱却し、家族関係と適切に向き合うことができるようになる。

 

 エヴァンゲリオン新劇場版「序」の冒頭のシーンでは、綾波レイ=〈母親〉が父の名ゲンドウのもとに半強制的にエヴァンゲリオンに搭乗させようとするのを目撃し、シンジ君は「逃げちゃダメだ」との決意のもと、〈父親〉=使徒と対峙することを選択する。これがエディプス・コンプレクス第二段階の始まりであったことは明らかであろう。

 ここでは第一段階で説明したような、〈母親〉の望むものになりたいという欲望が作用しており、エントリープラグに入ることはそのメタファーだと言える。「エヴァンゲリオン=母親に欠けているもの」=「エントリープラグ」であり(これはペニス、ラカン風に言うとファルスの暗喩であると言うことも可能である)、文字通り〈母親〉と一体化することによって、〈父親〉を打ち砕こうという戦いなのである。この初戦において初号機=〈母親〉が暴走するのは、子供にとって〈母親〉は単に自分の欲求を満たしてくれる=操作できるだけの存在ではなく、十全に自立した存在であることを象徴するシーンだ。

 

 ここまでで、シンジ君がエヴァ初号機に乗ることは父を亡き者にするという動機によっているということは理解できるだろう。ではならば、エヴァ初号機に乗らないことが〈父親〉を傷つけない去勢不安を経た大人への成長を示すかといえば、これはもちろん違う。「序」「Q」ではシンジ君が度々ウジウジエヴァ初号機に乗ることを拒むが、これは規範、秩序としての〈父〉から逃走するためだ。〈父〉が〈母〉を奪い、そこに作られた〈家族〉に自分の存在が必要ないのであれば、自分の存在なんて消えてしまえばいい。エヴァになんて乗らなければいい。そういった思いでシンジ君はエヴァ初号機に乗らないという選択に取りつかれる。

 つまり、シンジ君はエヴァ初号機に乗ることにおいてもそれを拒否することにおいても〈父〉のことを敵だと認識している。だから、エヴァ初号機に乗るか乗らないかという単なる選択は抵抗するか逃走するかの違いでしかなく、その選択の結果のみによってシンジ君の〈家族〉関係は良好な方向に向かいはしない。むしろ、それは面倒な〈家族〉問題にコミットすることを押し付けるだけのものである。

 では、このような複合的で袋小路的な状況におけるシンジ君の成長とは何なのか。私が考えるに、これがエヴァンゲリオンのシリーズを通しての問いである。しかしながら、私には実際のところ明確な答えが与えられるものではないとも考えている。これは物語がハッピーエンドであったかバッドエンドであったかを議論するようなもので、無意義なものだからだ。まあしかし、無意義であることを承知で私見を述べれば、シンジ君が十分な葛藤を経てエヴァ初号機に乗り、一生懸命怯みながら使徒と戦って、しかし敗北を喫し、ボロボロの綾波レイエヴァ初号機を傍目にゲンドウとしっかり目を合わせて終わる、ぐらいが安直な成長なのではないかとは思う。重ねて言うが、これは読者の理解の助けになればと思い書いている次第であり、一般的な理解では全くないと思われる。

 

 さて、 「序」は関係性の整理が中心になるため、物語の道筋に沿った説明は少々難しかった。したがって、最後に簡単に物語を纏めよう。

 

 まず物語の初めには、シンジ君が〈父〉と出会う。そして父に使役される〈母〉=綾波レイのために、自ら〈父〉と戦うことを決意する。エディプス・コンプレクスの本格的な始まりである。「ダメよ、逃げちゃ。お父さんから。何よりも自分から!」

 物語の中盤では、シンジ君がエディプス・コンプレクスの対処に苦戦する。エヴァ初号機に乗ることは、それだけで褒められることではない。その先に〈家族〉関係を良好にする方向性を見出してこそ、正しい成長・・・・・なのである。シンジ君がトウジに殴られるのは、エヴァ初号機に乗るというそれだけで(〈完璧な母親〉という幻想を抱いて)褒めて貰えると勘違いしているからだ。

 第5使徒(トウジとケンスケが見物に来たイカみたいなやつ)に命令を無視してまで襲いかかった理由はエヴァ初号機=〈母親〉は負けてはいけない、〈僕ら〉は完璧でなければ!という執念である。その執念の結果使徒を倒すことに成功したのだから、この事件のあとのネガティブな態度に反して、シンジくんには達成感があったことだろうと私は考える。シンジ君の中では、第5使徒を倒して、〈父親〉という男性的なモノを持った人物と敵対し合ったまま、〈完璧な母親〉というものを仮想的に作り出すことに成功したのだ。バーのシーンでリツコはミサトに、ミサトはゲンドウに、シンジ君がNERVに残った理由を求めたが、私見では双方ズレている。そもそもシンジ君がNERVから逃げた理由は、目的が達成されたと感じたのに一切褒められず、それどころか依然としてエヴァ初号機に乗れと言う規範、秩序としての〈父〉の不条理さであり、戻ってきた理由は逃走していては〈完璧な母親〉が不完全なものとして扱われてしまうからだ。

 第6使徒(正八面体の青いやつ)と戦闘する物語の終盤では、一時この〈完璧な母親〉を喪失しかける。そのことでシンジ君は再び逃走という選択によってエディプス・コンプレクスに対処しようとする。しかしまた、ミサトさんに自分が〈母親〉にとって特別な存在であるということを諭され、綾波レイ=〈母親〉と一緒に使徒と戦闘することを選択する。そしてなんだかんだで勝利する。非常にウジウジした場面だ。

 そして物語の最後には、かつてのゲンドウと全く同じように身を挺して綾波レイを助ける。これは、ゲンドウとシンジにとって綾波レイ=〈母親〉が同じように性的対象として扱われているということだ。「自分には他になんにもないって、そんな事言うなよ」。それでは、何があるのか。もちろん自分=子供である。結局、シンジ君は「序」においては〈完璧な母親〉とそれを支える子供=自分という幻想をより堅固に守るに留まった

 

3.準備としてのエヴァンゲリオン新劇場版:破

 

 結構道徳的・・・な内容で、内容もここに書くようなことは少なく、私は1番好みではないが、私の好きな式波・アスカ・ラングレーが登場する。というより、私には、アスカは好きになるのが正しいキャラクターだと考えられている。

 綾波レイはヒロイン然としているが、先に言ったように彼女はシンジにとって母親と同一であり、幼児期か思春期かに父ゲンドウとの衝突を通じて性的には諦められるべきものである。だから、シンジ君にとっては綾波レイ以外を好きになることがエディプス・コンプレクス的な成長だと、私は考える。まあどうでもいい。私はこの文章では式波・アスカ・ラングレーに関しては書かないと決めている。いや、書くことがないのだ。また、真希波マリについてもほとんど書くことは無い。どうせシンジくんには綾波レイ以外見えていないのだから、少しヒロインが増えた、ぐらいの理解でいいと思う。シンジ君が〈完璧な母親〉という幻想を手放すまでは、他のヒロインも良い友人程度のものでしかない

 

 本編はシンジくんが父親と話すシーンで始まり、一見不器用ながら仲の良い親子に見えなくもないが、「素直になったって嫌な思いするだけです。」というのがシンジ君の想いの全てである。未だ〈父〉は敵であり、〈完璧な母親〉を奪おうとするものだ。

 失礼ながら、その確認さえ出来れば、「破」の前半は飛ばして構わないとすら思える。いや、もちろん面白いが、ここで語るようなことは無い。したがって、第9使徒(侵食型のやつ)の捕捉まで話を飛ばす。

 

 もちろんシンジ君は第9使徒を倒すことに躊躇するが、それはアスカに死んで欲しくないからというだけではない。それはむしろ二次的なものである。シンジ君にとっては、「初号機にアスカを殺させようとした」ということの方が重要だ。自分は〈母親〉の欠けたところにならなければならないのであって、まさか人を殺させるようなことはしてはいけない。それをダミープラグによって無理矢理行わせる父親はまさに自分を〈母親〉から引き剥がそうとしているものであり、そのような〈父親〉はシンジ君にとって憎悪を抱くべきものでしかない。シンジ君の〈完璧な母親〉への執着が強く見られる場面である。

 しかし同時に、この場面はシンジ君にとって〈完璧な母親〉が大きく揺らぎ、剥奪者としての〈父〉に極度に接近したシーンだとも言える。過度にグロテスクに描かれるのは、シンジ君の初搭乗時の暴走とは一線を画す、シンジ君にとって絶望的な状況であることを示していると言えよう。

 こうなってしまっては、またウジウジが始まる。初号機に乗ることを辞め、規範や秩序としての〈父〉から逃走することを願う。これは心的描写でしっかりと明言されている。「嫌なことから逃げ出して、何が悪いんだよ!」

 しかしまあ、正直なところこれも「序」から見られたようなウジウジでしかない。自分の命すら捨てるほどのウジウジというのは相当なウジウジであるが、シンジ君にとってエヴァ初号機に乗らないという選択は〈父〉の規範や秩序から逃走し、それによる〈母〉の剥奪を認めるということに繋がる。これは自分の存在そのものを諦めることにすらなる。〈家族〉問題にコミットしない子供に、いかなる生も与えられないのだ。

 しかし結局、「乗らないって決めたんだ」と繰り返し唱えるシンジ君は、やはり本心では〈完璧な母親〉を求めている。

 だから、「僕はエヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジです!」=「子供として、〈完璧な母親〉を取り戻しに来ました!」と言うわけである。私はシンジくんのことを信用していないのでどうせまたウジウジするんだろうがと思っているが、人によってはここでエヴァからの逃走という選択肢を振り切ったと考えるかもしれない。

 

 そして、ラストシーンで初号機が覚醒する。この動機はやはり「序」の開幕と同質だと言える。綾波レイ=〈母親〉=初号機の欠如を埋める存在に自分がなる、これはつまり綾波レイ使徒に負けてはならず、エヴァンゲリオン初号機はその救出に失敗してはならないという幻想を守るために、初号機は覚醒しなければならない・・・・・・・・・というわけである。そして、シンジくんは「あなた自身の願いのために」使徒を倒し、綾波レイを取り返す。

 ここまでの文章を読んだ察しの良い方ならば、これが第5使徒の時と同じように、〈完璧な母親〉の実現であると分かるかもしれない。散々使徒は一人では倒せないというような場面を見せておきながら、ここでシンジくんが使徒を圧倒するのは、それが〈完璧な母親〉だからだ。

 これはもちろん、第5使徒の時もそうだったのだが、本当はありえない話ではある。なぜなら、本当は〈母親〉とは欠如している(綾波レイがここでしか生きられないといったのはこのことであるだろう)ものであり、それを説明してくれる〈母親〉の愛する人としての〈父親〉がいて初めて、子供は成長できるのだから。これは、シンジ君が〈母親〉に欠けているモノを全て手に入れたという、傲慢な思い違いでしかないはずだ。だから、第5使徒の時は、シンジ君の達成感と反して周りの祝福は一切なく、単に作戦の続行だけが命令された。

 しかしこの場面では、第5使徒の時のように淡々と搭乗を続行させようとするミサトさんはもう居ない。父ゲンドウも、シンジ君の勘違い的な〈完璧な母親〉との同一化を黙って見守っている。これが、私が「破」を道徳的な物語・・・・・・と呼ぶ理由だ。

 シンジくんはこの道徳的な状況の中で、〈完璧な母親〉という幻想を、第5使徒の時より完璧な形で、達成したのである。

 しかしながら、これが子供にとって成長と呼べるだろうか。(というか、「序」のシンジ君と何が変わったのだろうか!?)少なくとも、作品内でも一般化できる形での成長としては描かれていないことは分かる。これは、この成長がセカイを破壊するいびつで破滅的なものになったことからも明らかであろう。「あなた自身の願いのために!」と言われて、自分の傲慢な思い違いを無理やり達成したシンジ君は、他のすべてを犠牲にすることになる。シンジ君以外の全ての世界市民は、それは成長ではないというのではないか。だから、その比喩としてサードインパクトは起こったのである。

 私がこの文章で「何がシンジ君にとって成長であるのか」を論ずるのは無意義であると考えていることは書いた。したがって、「破」のラストシーンはシンジの正しい成長ではない、とは論じない。だが、「破」は「絶望的な成長」の下で終幕した、と書くことは無意義なりに許されるのではないか。

 

4.準備としてのエヴァンゲリオン新劇場版:Q

 

 3作の中では最も意味不明だと言われていて、実際意味不明な部分が多いが、私は3作の中では一番好きである。

 唐突に14年経ったと明かされることからもわかるように、「Q」はそれまでの2作と大きく毛色が変わっている。特に大きく異なるのは、シンジ君があらゆる〈母〉との接続に失敗しているところだ。〈家族〉を捨ててまで守った綾波レイはもはや「綾波ではない」し、エヴァ初号機ミサトさんに奪われている。そして、「破」の最後でセカイ=〈正常な家族〉を捨て歪な成長を選んだので、シンジ君は成長を諦めた保護すべき子供として扱われる。これが批評的にどうこうというつもりはないが、ネット世間のミサトさんの豹変ぶりに対する悪評(?)に反して、私は一貫していると思うし、何より痛快で好みだ。

 セカイを捨ててまで綾波レイ=〈母親〉を守ったのだから、〈母親〉がいないのはおかしいのではないかと思われる方もいるかもしれないが、それは誤解だ。シンジ君は〈母親〉を救ったと自負しているが、シンジ君が見ていたのは〈完璧な母親〉であり、それは幻想である。実際には、〈父〉と繋がり欠如を認められているのが正しい〈母親〉なのだが、シンジ君はその事実から目を背け続けている。だから、母親はシンジ君の手元から消失してしまうのだ。シンジくんが「僕も乗ります!」と叫ぶのは〈完璧な母親〉としてのエヴァであり、ヴィレが保持している〈本当の母親〉ではない。

 「乗っているのは綾波なんですよ!嘘だ!だってそこにいるんですよ!」との通り、綾波のことも〈完璧な母親〉として扱っていたからこそ、その声に従って〈母親〉がいるはずのNERVへと向かったのである。

 しかしそこで冬月先生から真実を教えてもらうことで、自分が救ったはずの〈完璧な母親〉=綾波レイは存在しない、綾波レイ=エヴァ初号機は〈完璧な母親〉ではない、という現実を突きつけられる。これも痛快だ。

 しかし本当にすごいことに、シンジ君の思いはそれでも変わらない。「もう一度セカイをやり直したい、そしてまたお母さんに会いに行く。だってお母さんは完璧なんだから。」というのがQでのシンジ君のモティベーションである。ガキね

 そのモティベーションにもっとも適合した人物がカヲル君であったことは言うまでもない。シンジ君はカヲル君との間に同性愛的な関係を構築するが、ここにも奥底には母親を見出している。これは「〈母親に欠けているもの〉=〈男性的なモノ〉を持つ母親との距離の近い人」=「カヲル君」を好きになったというふうに考えれば、分かりやすいだろう。(これは実は精神分析的には少し無理があるのだが......いや、あえて言えば、精神分析的に無理のあるようなことにすらシンジ君は縋ったのである)

 シンジ君はカヲル君を通して〈完璧な母親〉の元へと邁進する。カヲル君が槍の異変に気づき、やめようと言っているのにシンジ君は暴走気味に槍に向かって歩を止めないのは、本当はカヲル君ではなく、その奥にある〈完璧な母親〉の方を見ているからだ。

 そのように考えれば、セントラルドグマにあるべきだった二対の槍とは男性器と女性器の比喩ではないかと考えられはしないか。そこには、欠如としての〈母親〉の女性器が必要であったのに、シンジ君は〈完璧な母親〉を求めた結果として男根を持つカヲル君を準備してしまった。だから、そこには同じ形の槍(男性器)が二本あり、それは「破」とは異なる形での〈家族〉の破壊をもたらした。

 もちろん、当然ながら、同性愛そのものが断罪されるというのではない。〈完璧な母親〉というあり得ない存在のために、カヲル君を利用したこと、同性愛を〈完璧な母子関係〉の代替物として利用したことが断罪されたのである。その断罪が、勿論フォースインパクトである。

 

 

 

 結局、シンジ君は〈完璧な母親〉という幻想を手放すことができなかった。しかも、「序」「破」のように父を葬ったつもりになって〈完璧な母親〉と擬似的に戯れることも、それを他者の男根によって埋め合わせようとすることも、結局〈母親〉の喪失に繋がることを知ってしまった。

 フォースインパクトを引き起こしかけた後、アスカと綾波レイとともに歩いて行くシンジ君には、おそらく、もう他には何も思いついていないのだろう。

 そして、そのように絶望的なまま、エヴァンゲリオン新劇場版は終わりを迎える。

  これが私の理解である。

5.終わりに

 

・題目の通り、この文章は私的な見解をのべたものとなっている。

・題目にはないが、この文章はミサトさんやゲンドウの視点を完全に無視した、不完全なものとなった。これは、複雑になってしまうことと、一部は不可能であることと、長くなること、この三つの理由による。

・いいね、ブックマーク、シェアツイートなどしてくれると嬉しい。

・シン・エヴァンゲリオン劇場版は、一応見ておいた方が良いと思う。

・アスカが好きと書いたが、一番好きなのはピンク髪の北上ミドリである。彼女は シン・エヴァンゲリオン劇場版にも登場する。